関西のバラの歴史

 日本で本格的なバラの園芸品種の栽培が始まったのは、明治6~7年ごろ、政府が作った開拓使が36品種を米国から輸入したのが最初で、開拓使がその苗を接ぎ木して民間に払い下げ、そこから一般に広まったのです。

 日本の園芸が盛んな地域は、いずれも特産の鹿沼土や日向砂等の土壌があるところで、関西では、宝塚の山本の天神川砂があって、これが貝塚伊吹の挿し木や、バラの接ぎ木に役立ち、宝塚は大きな生産地になりました。山本におけるバラの栽培は、明治25年ころにバラ園と牡丹園が始めたといわれ、松方コレクションで有名な松方直方氏がバラを持ちかえり、神戸の別荘で栽培していたのを、庭師として出入りしていた坂上元右衛門氏が枝を貰って接ぎ木をしたのが最初だといわれています。その後は宝塚から関東の"ばら新"に、接ぎ木を手伝いに行った人たちが持ち帰って繁殖したといわれています。そのころのバラは全て日本名が付けられていました。

 昭和2年に関西で初めてのバラ会ができました。京都の伏見に居られた岡本勘次郎氏が千葉大学を卒業後に園芸の勉強のためにヨーロッパを回られた後、会長に菊池秋雄氏、常任幹事として岡本氏本人や田中秀三郎氏が就任し、幹事に前述宝塚山本のバラ園の金岡善蔵氏、大和農園の椙山誠治郎氏、津賀栄太郎氏、平井傳三郎氏等を据えて、大日本薔薇会を作りました。
 当時、関東にも帝国バラ会があり、同じように会報などを出していましたが、関西は学者や営利栽培家などが中心で、関東はアマチュア中心だったようです。
 そのころから新しいバラが次々と輸入され、バラ栽培も販売も盛んになったのですが、戦時になってバラの輸入も途絶えました。バラを取り巻く活動は敗戦後の昭和23年、日本バラ会が誕生したことから再開されました。その関西支部が寺西致知氏や浜田隆介氏などによって活動を始め、大阪の大丸百貨店でバラ展を開催・成功させたことで関西にまたバラの活動が営まれるようになったのです。

 日本バラ会の関西支部は、後に岡本氏や前田敏文氏、鈴木省三氏の協力もあり、次第に発展して(一時関東の本部と分かれて、新日本バラ会として活動した時代もありました)、昭和33年4月には関西支部会報誌の10周年記念号も発行されています。
 昭和25年ごろ、バラ・ブームが起こり、昭和27年に来日した米国のメトロポリタンのオペラ歌手、ヘレン・トロウベルが日本バラ会を通して250本の苗を寄贈し、それが全国に植えられることで最高潮に達しました。

 昭和30年には朝日新聞が主宰する朝日バラ協会が発足し、並河功氏、岡本氏、前田氏などの戦前の大日本薔薇協会の人たちが中心になり、枚方にバラ園と研究所をつくり、学術的な会報を出すようになりました。また、他に神戸バラ会や甲南バラ会等各地のバラ会も生まれ、バラの展示会や即売会が広く開催されるようになったのです。

 宝塚の山本でも、こうしたブームを通してバラ苗生産が盛んになり、大量のバラ苗が生産されていたのですが、あるとき、関東の三宿ばら園が輸入していた英国のマグレディーの苗に、今まで日本では発生のなかったベト病(葉に発生し、激しいと落葉して大きな被害となる病気)に感染した苗が入ってきて、山本のばら園を通して拡がり、対策できなかった全ての生産者の苗が感染して大打撃を受けたのです。これがバラ・ブームに水を指す形になりました。
 その後、バラ・ブームは去り、地方のバラ会も次第に消滅していきました。しかし、バラの魅力が忘れ去られたわけではなく、現代人のライフスタイルに園芸が浸透してきた昨今、栽培の状況も進歩して、日本の各地に大きなバラ園が作られるなど、またブーム復活の兆しが見えてきました。

 今でも全国組織である日本バラ会は残っていて、2006年に大阪で世界バラ会議を開くなどの活動を続けていますが、兵庫県は大きなバラの産地や全国に名の知れたバラの育種家を抱えていて、また多くのバラ園もあるところで、地域独自のローズ・クラブを中心としたバラ文化が花咲くことが期待されるのです。兵庫県のバラ園や生産地での栽培品種などもこうした会報や活動で詳しく紹介していきながら、バラの持つ魅力がこのひょうごローズクラブを通して一人ひとりの暮らしに溶け込んでいくことを願っています。

ひょうごローズクラブ理事   
園芸コンサルタント   
藤岡 友宏 
(掲載日 2007.06.02)